20代のころに下の前歯のガタつきを矯正で治した。リテーナーは数年でつけなくなった。それから十数年、鏡を見ると下の前歯が少し重なってきている。治療前ほどではないけれど、確かに戻っている。
こう気づいたとき、浮かんでくるのは二つの考えです。せっかくの治療がムダになったのか。それとも、リテーナーをやめた自分のせいなのか。
どちらでもない見方があります。長い年月をかけた後戻りの多くは、歯が生涯かけて動き続けるという、体の自然な変化から来ています。
歯は、治療とは関係なく生涯動き続ける
歯並びは、一度整えたらその形で固定される、という種類のものではありません。歯は歳を重ねるあいだも、少しずつ位置を変え続けています。
歯列には、年齢とともに横幅がわずかに狭まり、前歯が内側で混み合う方向へ進む傾向があることが知られています。矯正学の報告では、歯の並びには全体として縮んでいく生理的な傾向があり、矯正治療はその流れを一時的に止めているだけで、治療が終わると縮む動きが再び始まる、と説明されています。
大事なのは、この流れが矯正を受けたかどうかと関係なく起こることです。一度も矯正をしていない人でも、歳を重ねると下の前歯が重なってくることがあります。若いころは前歯がまっすぐ並んでいた人が、中年になって下の前歯だけ少し重なってきた、というのはよくある変化です。加齢とともに顔つきが少しずつ変わるのと同じように、歯の並びも止まってはいません。
つまり、矯正をした人の10年後の後戻りと、矯正をしていない人の下の前歯の重なりは、根っこの部分で同じ流れを見ています。大きな違いの一つは、矯正をした人は一度きれいに並んだところからの変化なので、動きに気づきやすいという点です。もとがガタついていた人ほど、少し戻っただけでも「元に戻った」と感じやすいところもあります。
ここから見えるのは、10年後の後戻りが「治療の出来が悪かった」とは別の枠で説明できる、ということです。矯正で止めていた自然な流れが、止めるものがなくなって再び進んだ。そう捉えると、話の見え方が変わります。
矯正の直後に起きる後戻りとは、時計が別だという点も付け加えておきます。治療を終えたばかりの歯は、周りの組織がまだ落ち着いておらず、動かした反動で戻ろうとします。これは治療後の数か月から数年の話です。10年という長さで効いてくるのは、それとは別の、生涯続く縮む流れです。
とくに戻りやすいのは、下の前歯
戻り方には、出やすい場所があります。矯正のあとの後戻りは、下の前歯でとくに起きやすいことが知られています。
冒頭のように、下の前歯の重なりで気づく人が多いのは、偶然ではありません。そこが、並びの変化がいちばん現れやすい場所だからです。上の歯や奥歯は比較的保たれていても、下の前歯だけが先に混んでくる、という現れ方をすることがあります。
なぜ下の前歯なのかについては、いくつもの要因が挙げられていて、一つに決まってはいません。噛む力のかかり方、舌や唇からの圧、あごの骨の変化など、複数が重なっていると考えられています。ここは、自分がどれに当てはまるかを見分ける話ではありません。下の前歯は変化が出やすい場所だ、という事実として受け取っておくと、実際に気づいたときに驚きが減ります。
長期の変化は、前もって読みきれない
もう一つ知っておくと気が楽になるのは、10年20年という長いスパンで歯並びがどう変わるかは、前もって読みきれないということです。
長期の並びの変化を調べた報告では、とくに前歯の並びについて、変化の大きさが、もとの歯並びの状態、年齢、噛み合わせの種類、受けた治療の種類のいずれとも、はっきりした関係を示さなかったとされています。つまり、「この条件なら戻る」「この条件なら戻らない」という確実な線引きは、いまのところ引けていません。
このことは、戻ったことを一つの原因に決めつけにくい、という意味でもあります。リテーナーをやめたから戻った、とだけ考えると、実際より単純になります。保定をやめたことは流れを速めた可能性はありますが、保定を続けていた人にも変化は起こりえます。戻ったのは自分の怠慢だ、と一人で背負い込む必要はありません。
予測しきれないということは、裏を返せば、いま戻っている人がこの先どうなるかも、決まってはいないということです。これ以上進むのか、いまの程度で緩やかになるのかは、時間が経ってみないと分かりません。だからこそ、現状を一度見ておくことに意味があります。進み方が気になるなら、その時点の並びを記録として残しておくと、あとで見比べる手がかりになります。
保定は、止めた流れを押さえ続ける装置
こう見てくると、リテーナーの位置づけも変わってきます。
保定装置は、治療のあとの歯並びを保つために使うものです。生涯続く縮む流れが治療後も止まらないのなら、リテーナーはその流れに対する重しの役割を担うことになります。治療の後始末というより、動き続けようとする歯を押さえ続けるための装置、という見方が近くなります。
長く並びを保つには、長く続く保定が要るとされています。ただし、正直なところ、保定を長く続けることが安定を保証するのか、それとも後戻りを先延ばしにしているだけなのかは、まだはっきり分かっていません。矯正学の報告でも、そこは今後の検討課題として残されています。分かっているのは、押さえるものがあるあいだは流れが抑えられる、というところまでです。
何年つけ続けるべきか、どの時点でやめられるのかは、状態と装置によって変わる別の話になります。ここでは、保定が「治したあとの念のため」ではなく「動き続ける歯を押さえ続けるもの」だという位置づけまでを押さえておきます。
リテーナーがきつく感じる、入りにくいといった日々の変化には、そのときの歯の側の事情があります。リテーナーがきついとき、歯の側で起きていることが、その手応えを読み解いています。
※本記事で触れる歯列矯正は自由診療(マウスピース型矯正装置による歯列矯正)であり、公的医療保険の対象外です。参考として当院の費用と治療期間の目安は Lite 150,000円(税込)・約2ヶ月(上下前歯12本・マウスピース各7枚以内が対象)/ Basic 330,000円(税込)・約3ヶ月(上下前歯12本が対象)/ Pro 660,000円(税込)・約6ヶ月(上下24本が対象)/ 全歯を対象とするプラン 880,000円(税込)です。全歯を対象とするプランの治療期間は、動かす範囲が広いため個々の状態により異なります。期間はいずれも歯を動かす矯正期間の目安であり、後戻りを防ぐ保定期間は含みません。通院回数は最低1回で、治療内容・個人の状態により異なります。安心保証制度とワイヤー補償が付帯するのは Basic・Pro のみです。歯の移動に伴い、歯の痛み・歯根吸収・歯ぐきの退縮・後戻りなどのリスクが生じる場合があります。重度の歯周病・顎関節症・未治療のむし歯などがある場合や、あごの状態によっては、治療をお受けいただけない、または先に別の治療が必要になる場合があります。過去の矯正の後戻りに対する再治療の可否や範囲は、現在の歯とあごの状態によって異なり、検査を経た診断によります。
戻ったところから、できること
すでに動いてしまっていても、そこから手が尽きるわけではありません。
戻ったといっても、多くは治療前の状態にそっくり逆戻りしているわけではありません。ある程度整えた並びから、いくらか動いた、という状態であることが多いものです。そこを出発点にして、気になる範囲を整え直す、あらためて保定を組み直す、といった選択肢があります。何がどこまでできるかは、いまの並びの程度によります。
当時の治療の内容が分かる資料が手元にあると、話は進めやすくなります。ただ、資料がなくても、いまの状態を見れば道は考えられます。
そして、戻ったからといって、あの治療がムダだったわけではありません。整えた並びで過ごした年月があり、押さえるものをやめてから動いた期間があった。そういう順序で見ると、ゼロに戻ったのではないことが分かります。
矯正の10年後の後戻りに関するよくある質問
Q. リテーナーをやめたから戻ったのでしょうか?
やめたことが、戻る流れを速めた可能性はあります。ただ、それだけが原因とは言い切れません。歯が動き続ける流れは、リテーナーを続けている人にも起こりえます。やめたことを悔やむより、いまの状態からどうするかを考えるほうが前に進みます。
Q. 一生リテーナーをつけないといけないのですか?
長く保つには長く続けるほうがよい、とされています。一方で、何年で外せるか、就寝時だけに減らせるかは、状態と装置によって変わる部分です。一律に「一生」と決まっているというより、続けるほど流れは押さえられる、という関係だと受け取っておくと、実際の相談で自分の場合を確かめやすくなります。
Q. 子どもに矯正させても、どうせ戻るなら意味がないのでしょうか?
戻る流れがあることと、矯正に意味がないことは、別の話です。整えた期間があること自体に、噛み合わせや清掃のしやすさといった面での意味があります。そのうえで、治療後にどう保つかを最初から計画に含めておくと、長い目で見た向き合い方が変わります。
Q. もう一度矯正すれば、次は戻らないようにできますか?
再び整えることはできますが、「次は戻らない」と保証できるものではありません。動き続ける流れ自体は、治療の回数で消えるものではないためです。整え直したあとに、どう保定を続けるかまで含めて考えることになります。
まとめ
矯正から10年経っての後戻りは、治療の失敗とも、本人の怠慢とも、一概には言えません。歯には生涯かけて少しずつ動き、下の前歯が混み合う方向へ進む生理的な流れがあり、矯正はそれを一時的に止めているものだからです。矯正を受けていない人にも、この流れは起こります。
保定は、治したあとの念のためというより、動き続ける歯を押さえ続ける装置にあたります。10年後にどう見えるかは、その押さえを続けているかに直結します。
すでに戻っていても、いまの状態から考えられることはあります。過ぎた年月を悔やむより、動いた分をどう扱うかのほうが、次につながります。